ブログ『鍼道 一の会』

『鍼道 一の会』は、「福祉への貢献」を目的に、「伝統医学」を規範に、「鍼灸」を手段に、「大阪市」を本拠地に据え、活動を続けている団体です。

性を養う(1) 大體第一④

 養生篇大體第一の最後は、神仙について、嗜欲について、抱朴子、荘子、呂氏春秋、顔氏家訓です。顔氏は「周礼」や「春秋左氏傳」を伝える家に生まれ、北齋、北周、隋に仕えたとされる人です。

 どれも養生の大切さと、人によっての違い、欲を節制することの大切さを説いています。

 神仙については、

 「目には見えないが、書や歴史書に記載されていることから、存在する事は間違いない。特に異能の力を持っているのは、自然に持っているもののようで、どれだけ学んだところでできるものではない。

 しかし、道を養して理を得て、性命を極め尽くせば、数百年から千年生きられるのは当然だろう。」

 養生不足の私には知るよしもないところですが、東洋医学を学んでいるとこれは養生さえしっかりし、肉体の限界ではなく、精神的な死をも考えると不可能ではないように感じています。

 「世の人は精進しないから、この道を体得できないのである。

  精神とその形骸との関係は国と国王のようなものだと言える。」

 「精神が体内で騒げば、その形骸が失われる。

  人々の上にいる君主が悪い君主でれば、その国が乱れるようなものである。

  殷の湯王の時代に旱魃が七年も続いたが、その時に穀物を植えたとしたら幾ら水を掛

  けても焼けただれ育たないだろう。

  それでも水をかけると、かけない時よりは必ず枯れるのが遅くなるのである。

  だから「一漑の益」というものは決して侮るべきではない。

  それでも世人は常に一度くらい怒っても性質を損なうほどのことではないと考える。

  一度くらいの哀しみは身体を傷つけるほどではないとも言う。

  こうやって侮って怒りや哀しみに身を委ねていると、一漑の水が役立つ事を知らず、

  良い実りを日照りの苗に期待するようなものとなる。

 だから君子は形は内に在る神を頼りに成り立ち、神は形骸があって初めて存在する事を

 弁え、生存の道が失われやすいことを悟り、ほんのわずかな過ちが生を損なう事を知る

 のである。

 その為、本性を修めて神を安らかに保ち、心を静かにして身を全うするのである。

 愛憎の情に溺れず、憂いや喜びをいつまでも心に留めようとせず、すっきりと心が澄んで

 濁りがなく、心配事が無ければ、身も心も和んで平らかになる」、と。

 少しの養生の怠り、自分の身体と心を省みることのない生活がもたらす結末に対して真摯に想いを馳せている姿が見て取れます。

 又、「欲望は人情として当然であるが、道徳上からは正しくないことがある。

 木に木食い虫が寄生するようなもので、木に生じた虫であっても、木のためには良くないのと同じである。

 木食い虫の勢いが盛んであれば、木は枯れ、欲望が募れば身体が衰える。

 このように欲望は命と両立しないし、名は人間の身体と一緒には存在しないことを弁えるべきである。」

 誰でも欲なしには生きる、生活、というものを生き生きとはなしえない事を充分に解っているからこそ、それを阻害する要因はその中にこそあり、原因と結果は常に繋がっているという事を伝えてくれています。

 又「名利への執着を絶てないのが一つの難点、喜怒の感情を除かないのが不達の難点〜」と、稽康の養生論と同じ事も記載している。


 抱朴子は
 「長生の道を求める人は、必ず善を積み、功を立て、物に対して慈しみの心を持つようにしなければならない。

 自分の身になって人の事を考え、思いやりの心を昆虫にまで及ぼし、人の幸せを心から喜び、人の不幸を共に哀しみ、慌てている人には綿密な配慮をし、窮地の人は救ってあげる。

 自分の方から人を傷つけたり、殺したりせず、自分の口から幸せを吹聴せず、人が失うのを視たら自分が失ったように偉ぶらず、自慢せず、自分より優れたものを嫉妬せず、へつらったり人をおとしめたり、陰にまわって悪事を働くことがないようにする。

 このようにすれば有徳の士となり、天から福を授けられ、やろうとすることは必ず成功し、仙人になろうと願えばなることができる。」

 仙人になるかどうかは置いておいて、心のありようが未来を変え、それによって身体も変わっていく事が書かれています。

又「損なう事は分かりやすく、しかもすぐに現れるが、為になる事は分かりにくく、

 しかも効果が現れるのに時間がかかる。

 それなのに、知り易い損さえも気づかずなくて、知りにくい益を認識できるはずがない。

 損なわれるものは、灯りが脂をどんどん使い尽くすように、目には見えないがすぐに尽きてしまう。

 有益な事は苗木が繁殖するように、いつか分からないうちに茂っている。

 この様に考えると、身を修め、本性を養い育む為には、務めてその細部について注意する。

 益することが少なく、効果がすぐに現れないからと言って、修養を怠ってはならない。

 小さな損傷ぐらい大丈夫だと防がずにいてはならない。

 あらゆる事に於いて、小さな物を集めて大きくするには、一を積み重ねて億に到達する道理なのである。

 もし微細なものを大きくする事ができれば、それは道を知るのに近いのではないだろうか。」



 荘子の言葉には、
 「養生の達人は羊飼いのようなものである。群れをじっと見守っていて、後れているものにむち打っていれば良い。

 魯国に單豹と言う人がいた。彼は巌窟に隠棲して、谷川の水を飲んで暮らし、世人と交わらなかった。

 七十歳になっても乳飲み子の様な色艶を保っていた。不幸なことに飢えた虎に遇い、虎に食われてしまった。

 又、魯国に張毅という人がいた。彼は立派な門構えのすだれを懸けた富貴の家の人であれば訪れない事ないという程、権力に媚びる男だったが、四十歳の時に内熱病にかかって死んでしまった。

 單豹は精神之修養に努め、内面性を高めたが虎にその形骸を食われ、張毅は外面的なことに気を取られ、病気に内側から犯されてしまった。

 この二人は羊飼いが後れた羊にむち打って群れの管理をするように、自分の内外に目を配って調和を計らなかったのである。」

 ここで初めて、内の修養だけでなく、外の防衛も重要であり、内外の備えのバランスの大切さが語られています。


 呂氏春秋には次のように書いている。
 「聖人が生を養う方法には、本性に適ったやり方がある。

 部屋が大きければ陰の気が多く、土台が高ければ陽の気が多い。

 陽が多いと身体の気が逆行して脚気のような病気を起こし、陰が多いと萎え痺れる病気にかかる。

 全てのバランスが取れないために生じる病気である。

 色々な肉料理をたっぷり食べると、気は肉のために損なわれて巡らないし、厚着をして熱がこもれば肌の気孔を塞ぐ。気孔が塞がると気が行き渡らなくなる。

 これらは全て命を損なう事である。

 だから聖人が禽獣園や池のある庭園を造るのは、観たり展望したりして身体を労るだけの目的なのである。

 宮殿に展望台を作るのも、乾燥や湿気を避けられれば事足りるのである。

 輿や馬は身体を楽にし、毛皮は身体を温かくすればそれで良い。

 甘酒を飲むのは栄養に適い、空腹を満たすのに足りるからである。

 歌ったり楽器を弾いて音楽を催すのは、それによって生きる事に安らぎを得て、自分で楽しめば充分だからである。

 これら五つの事柄は、聖人がその生を養うための手段なのである。」と。


又「靡曼、皓歯、鄭衛の音楽のことを名付けて「伐命の斧」と言い、豊かな肉、濃い酒を共にたくさん勧めることを名付けて「爛腸の食」と言う。」

 難しく書いていますが、全て寿命を縮める事を揶揄しています。内外のバランス以外に、人によって適不適があり、個人個人違った養生があるので、自分に合わせていかなければ養生にはなりません。



 顔氏の家訓には、
 「生を養うものは、先ず全ての禍に対して万全の備えをしてから福を求め、身を全うして本性を大切にすること。

 命があって、後にこれを養う事ができる。

 生を全うできない状態で、本性を養おうとしてはならないのである。

 單豹は内面性の充実にばかり気を取られたために、外的によって形骸を失い、張毅は交際にかまけて、自分の内なる病気に気づかずに、身を滅ぼした。

 これらは先人の戒めである。」

 稽康は養生論を世に著したが、自己の才能を傲った為に刑罰を受けた。

 石崇は食物で長生きすることを願い、貪欲に溺れたために禍に遇った。

 こういうことは往々にして、世の人々が迷う所である。

 養生を怠れば、未病となり病となり死となる。養生が精華を極めれば美となり、壽となり、生を全うすることができる。当たり前のようで難しいことです。


原文と書き下し文

又云、夫神仙雖不目見然記籍所載、前史所所傳較而論其有必矣。似特受異氣稟之、自然非積学所能致也。至於道養得理以盡性命上獲千餘歳下可數百年可有之耳。而世皆不精故莫能得之何以言之。夫服薬求于汗、或有不得而愧情一集則溲然流離。終朝不食囂然思食而曽子銜哀七日不飢。夜分而坐則低迷思寝、内懐殷憂則達旦不瞑則、勁刷理、鬢醇醪發顔、僅乃得之。壮士怒赫然殊観、植髪衝冠。由此言之、精神之於形骸猶國之有君也。神躁於中而形喪、於外猶君昏於上而國乱於下也。夫為稼於湯世、偏有一漑之功者、雖終歸燋爛、必有一漑者後枯。然則一漑之益固不可誣矣。而世常謂、一怒不足以侵性、一哀不足以傷身。軽而肆之是猶不識一漑之益而望嘉禾於旱苗者也。是以君子知形恃神以立、神須形以存悟生理之易失知一過之害生。故修性以保神、安心以全身、愛憎不棲於情、憂喜不畱於意。泊然無感而體氣和平。
 又云う、それ神仙は目に見えずと雖も、然も記籍に載する所、前史の伝うる所、較かにして、其の有を論ずるや必せり。特に異氣を受うるは、之を自然に稟くるに似て、積学の能く致す所に非らず。道養、理を得て、以て性命を尽くすに至りては、上は千余歳を獲、下は数百年なるべきこと、之れ有るべきのみ。而して世皆、精しくせざるが故に、能く之を得る莫し。何を以てか之を言わむ。夫れ服薬して汗を求むるも或いは得ざることあり。而れども愧情一たび集まれば、則ち溲然として流離す。終朝食わざれば囂然として食を思う。而るに曽子は哀を銜みて七日飢えざりき。夜分にして坐して則ち低迷し、寝んことを思うも、内に殷憂を懐だけば、則ち旦に達るまでも瞑られず。勁刷を理え、鬢醇醪顔に発するは、僅かに乃ちこれを得。壮士怒るや赫然として観を殊にし植髪冠を衝く。此れに由りて之を言えば、精神の形骸に於けるや、猶国の君あるがご
ときなり。神中に躁ぎて形外に喪ぶこと、猶君上に昏くして、国下に乱るるがごとし。夫れ稼を湯の世に為せば、偏えに一漑の功ある者も、終に燋爛に帰すと雖も、必ず一漑ある者は後れて枯る。然らば則ち一漑の益には固より誣うべからざるなり。而るに世の常に謂えらく、一たびの怒りは以て性を侵すに足らず、一たびの哀しみは以て身を傷るに足らず、と。軽んじて之を肆にするは、是れ猶一漑の益を識らずして、嘉禾を早苗に望む者のごときなり。是を以て君子は、形は神を恃みて以て立ち、神は形を須ちて以て存するを知り、生理の失い易きを悟り、一過の生を害するを知る。故に性を修めて以て神を保ち、心を安んじて以て身を全うす。愛憎、情に棲まず、憂喜、意に留まらず。泊然として慼いなければ体氣和平なり、と。



 又云、嗜欲雖出於人情而非道徳之心、猶木之有蝎、雖木所生而非木所宜。故蝎盛則木朽欲勝則身枯、然則欲与生不並立、名与身不倶存略可知矣。
 又云う、嗜欲は人の情より出づると雖も、而も道徳の正しきに非ざること、猶木の蝎(のむし)ありて、木の生ずる所なりと雖も、而も木に宜しき所に非ざるがごとし。故に、蝎盛んなれば則ち木朽ち、欲勝れば則ち身枯る。然らば則ち欲は生と並び立たず、名は身と倶に存ぜざるを略(ほぼ)知るべし、と。
 宇治本に無く、正本に在り。之れ但し端に在りて仍ち之を点せず。





又云、養性有五難、名利不滅此一難也。喜怒不除此二難也。聲色不去此三難也。滋味不絶此四難也。神慮精散此五難也。五者必存雖、心希難老、口誦至言、咀嚼英華、呼吸大陽不能不曲其操不夭其年也。五者無於胸中則信順曰済、玄徳曰全、不祈而有福不求壽而自延此養生大理之所都也。
 又云う、性を養うに五難あり。名利滅せざる、此一の難なり。喜怒除かざる、此れ二の難なり。声色去らざる、此れ三の難なり。滋味絶たざる、此れ四の難なり。神慮の精散ずる、此れ五の難なり。五者必くも存ずれば、心に難老を希い、朽ちに至言を誦し、英華を咀嚼し、太陽を呼吸すると雖も、其の操を曲げず、其の年を夭せざること能わざるなり。五者胸中に無くんば、則ち信順日に済まり、玄徳日に全く、祈らずして福あり、寿を求めずして自ら延ぶ。此れ養生の大道の大理の都まる所なり、と。




 抱朴子云、諸求長生者必欲積善、立功、慈心於物、怒己及人、仁逮昆虫。樂人之吉、愍人之凶、周人之急、救人窮。手不傷煞、口不勤福、見人得如己之得、見人有失如己之失、不自貴、不自誉、不嫉妬勝己、不佞諂陰賊、如此乃為有徳、受福于天所作必成求仙可冀也。
 抱朴子に云う、諸の長生を求むる者は、必ず善を積み、功を立て、物に慈心あらんと欲せよ。己を怒りて人に及ぼし、仁、昆虫にも逮ぶ。人の吉を楽しみ、人の凶を愍しみ、人の急を周くし、人の窮を救う。手ずから傷煞せず、口ずから福を勤めず、人の得るあるを見れば、己の得たるがごとく、人の失うあるを見れば、己の失えるがごとし。自らを貴しとせず、自ら誉めず。己に勝れる物を嫉妬せず、佞諂陰賊せず。此の如くんば乃ち、徳を有ち、福を天に受け、作す所必ず成り、仙たらんと求むるも冀うべしと為すなり、と。



 又云、夫五聲八音清商流徵損聡者鮮藻、艶彩、麗炳、爛煖、傷明者也。宴安、逸豫、清醪、芳醴、乱性者。冶容、媚姿、紅華、素質伐命者也。
 又云う、夫れ五声、八音、清商、流徵は聡を損なう者なり。鮮藻、艶彩、麗炳、爛煖は明を傷る者なり。宴安、逸豫、清醪、芳醴は性を乱す者なり。冶容、媚姿、紅華、素質は命を伐る者なり、と。




 又云、夫損易知而速焉。益難知而遅焉。尚不悟其易且安能識其難哉。
夫損者如燈火之消脂、之見而忽盡矣。益者如苗木之播殖莫之覚而忽茂矣。故治身、養性、務謹其細。不可以小益為不卒而不修。不可以小損為元傷、而不防。凡聚小所以就大積一所以億也。若能受之於徵成之於著、則幾乎知道矣。
 又云う、夫れ損は知り易くして速やかなり。益は知り難くして遅し。尚其の易きを悟らずして、且た安んぞ能く其の難きを識らんや。夫れ損する者は燈火の脂を消するがごとく、之れ見ゆること莫くして忽ち尽す。益する者は苗木の播殖するがごとく、之を覚ること莫くして忽ち茂る。故に身を治め性を養うは、務めて其の細なるを謹む。小益を以て卒ならずと為して修めざるべからず。小損を以て傷うことなしと為し、防がざるべからず。凡そ小を聚むるは大に就く所以、一を積むは億に至る所以なり。若し能く之を微に受けて著と成す者は、則ち道を知るに幾きか、と。




 荘子云、善養生者若牧羊者然視其後者而鞭之。魯有單豹者、巌居而水飲不与民共利行年七十而猶有嬰児之色、不幸遇餓虎、餓虎殺而食之。有張毅者高門懸薄無不趨也。行年四十而有内熱之病以死。豹養其内而虎食其外、毅養其外而病攻其内。此二子者皆不鞭其後者也。
  荘子が云わく、善く生を養う者は、羊を牧する者の若く然り。其の後れたる者を視て、之を鞭つ。魯に單豹という者ありき。巌居して水飲し、民と利を共にせず。行年七十にして猶、嬰児の色ありき。不幸にして餓虎に遇い、餓虎殺して之を食えり。張毅という者ありき。門を高くして薄を懸けたるには趨かざるなし。行年四十にして内熱の病ありて以て死せり。豹は其の内を養いて、虎は其の外を食い、毅は其の外を養いて、病其の内を攻む。此の二子は皆、其の後れたる者を鞭たざりしなり、と。「其の後るる者を鞭つとは、其の及ばざるを去くなり。」






 呂氏春秋云、聖人養生適性、室大則多陰、臺高則多陽。多陽生蹶、多陰生痿。皆不適之患也。味衆肉充則中氣不達、衣熱則理塞、塞則氣不周。此皆傷生也。故聖人為菀[囲いに有]園池、足以観望労形而己矣。為宮観臺樹足以避滲湿為輿馬衣装裘逸身足以煖骸而己。為飲醴足以適味充虚。為聲色音樂足以安生自娯而己。五者聖人所養生也。
  呂氏春秋に云う、聖人の養生は性に適う。室大なれば則ち陰多く、台高ければ則ち陽多し。陽多ければ蹶を生じ、陰多ければ則ち痿を生ず。皆、不適の患なり。味に衆くの肉を充たせば、則ち気を中いて達せず。衣、熱ければ則ち理を塞ぎ、塞がれば則ち気周からず。此れ皆、生を傷る。故に聖人の菀[囲いの中に有]園地を為るは、以て観望して形を労るに足らすのみ。宮観台樹を為るは、以て渗[火片]湿を避くるに足り、輿馬衣装を為すは、以いて身を逸して以て骸を煖むるに足らすのみ。飲醴を為すは以て味に適いて虚を充たすに足り、声色、音楽を為すは、以て生を安んじ自ら娯しむに足るのみ。五つの者は聖人の生を養う所なり、と。





 又云、靡曼、皓齒、鄭衛之音、務以自樂、命曰伐命之斧、肥肉、厚酒務以相強、命曰爛腸之食。
  又云う、靡曼、皓齒、鄭衛の音、務めて以て自ら楽しむを命けて伐命の斧と曰い、肥肉、厚酒、務めて以て相強るを命けて爛腸の食と曰う、と。「靡曼とは細理弱肌の美しきなり。皓齒とは謂う所の齒の瓠の犀のごときものなり。老子が云う、五味口に実つれば口をして爽傷せしむと。故に之を爛腸の食と謂う。」





 顔氏家訓云、夫養生者先須慮禍求福全身保性。有此生、然後養之勿徒養其無生也。單豹養於内而喪外、張毅養於外而喪内。前賢之所誡也。稽康著養生之論而以倣物受刑石崇冀服餌之延而以貧溺取禍往世之所迷也。
 顔氏の家訓に云う、夫れ生を養う者は、先ず須く禍を慮り、福を求め、身を全うして、性を保つべし。此の生ありて然る後、之を養う。徒に其の生なきを養うこと勿かれ。單豹は内を養いて、外を衷い、張毅は外を養いて内を衷えり。前賢の誡むる所なり。稽康は養生の論を著わす。而るに物に傲りしを以て刑を受けたり。石崇は服餌の延を冀う。而るに以て貧溺して禍を取れり。往々世の迷う所なり、と。