ブログ『鍼道 一の会』

『鍼道 一の会』は、「福祉への貢献」を目的に、「伝統医学」を規範に、「鍼灸」を手段に、「大阪市」を本拠地に据え、活動を続けている団体です。

3生気通天論篇第三

 黄帝が以下のように申された。
 太古より万物の生命の根源は、天の気に通じているものである。


 それはまた天の気も生命も、陰陽の変化が本であるからである。


 天地の間は、東西南北の四方と、上下の合わせて六合の空間である。


 この空間を満たしている気は、大地の九州(当時の国)、人体においては九竅(きゅうきょう=耳・目・鼻・口・前陰・後陰の穴)、五臓、十二の関節など、ことごとく天の気に通じているのである。


 この天地陰陽の変化は、天地の間に生・長・化・収・蔵の五つの気の働きを生む。
さらにこの天地の間に、天気・人気・地気の三気を生じるのである。


 このことを良く理解せずに、自然の法則を度々違えると、自然界の気が邪気となり、人を傷害するのである。


 青い空がどこまでも清浄であれば、人の気もまた天に応じて、心や気持ちも穏やかに爽快に過ごすことが出来るのである。


 このように清浄な天の気と人の心が順じて一体であれば、人を侵そうとする邪気が存在していても、人を傷害することは出来ないのである。


 これは、四季の変化に順じておればこそである。


 したがって聖人と呼ばれるような人物は、心神を蒼天の気に応じるべく専一にし、天神の明らかなるに応じていたのである。


 これに反すれば、外界との通路である耳・目・鼻・口・前陰・後陰などの九つの穴は塞がり、肌肉の汗腺も閉じてしまい、身体を守っている衛気もまた散じてしまうことになるのである。


 これは、外からやって来た邪気に侵された病のようであるが、実は少しずつ気を削るかのようにして自ら正気を傷っている姿である。


 人の陽気の性質と働きは、天と太陽のようなものである。


 太陽の運行が異常となれば、自然界はたちまち暗くなるように、元気な人の寿命も途中で折れてしまうものである。


 正常な天の運行は、太陽の光の明るさを以て測るのであり、人もまた陽気の巡りが正常であれば、陽気は身体の上に昇り、外をしっかりと衛るのである。


 寒の環境下では、気は扉の回転軸のようにゆっくりと動き、心身ともにひそやかに慎み、陽気を損なわないようにするのが良いのである。(扉のように、大きく動かないようにする)


 また起床時に、ハッとして驚いて起きるようであれば、神気は上に浮いてしまい、少しのことで動転するようになるのである。


 暑気が盛んで汗をかくような環境では、煩わしく動きすぎると、大きな声を出しながらあえぐようになる。


 反対に、動かないで静かにしていると、発散すべき陽気が内にこもって熱化し、心神を乱してやたら多言になるのである。


 この場合、身体に触れると、盛んな炭火のように熱いが、発汗すると内にこもった熱が散じて治まるのである。


 湿気の多い時期は、首から上が雲に包まれたたかのように、ボーっとしてはっきりしないものである。


 湿気と熱気が一緒になって人体を侵し、そのまま追い払うことができないと、大きな筋肉は縮んで拘攣して動かなくなり、小さな筋肉は反って緩んで伸び切ってしまい萎えて弱々しくなってしまうのである。


 陽気が不足すると、体液を動かすことができなくなるので、むくみを生じることになる。


 手足が思うように動かなくなると、さらに陽気が行らず陰邪である体液がはびこるようになり、またさらに陽気は衰退し、最後には尽きてしまうのである。


 陽気というものは、過度に忙しく繁雑に労働すれば張りつめてしまい、陽気の源である精を使い切ってしまうのである。


 夏の暑い時期に何度もこのようなことがあれば、身体はあたかも煎られたように熱くなり、熱中症のような意識障害を起こすのである。


 そうなると、目は見えなくなり、耳もまた聞こえなくなり、荒れ果てた廃墟のようになってしまい、戻ってこれなくなるのである。


 度が過ぎて大いに怒るようなことがあると、気血は正常さを失い、上半身にうっ血を起こし、これもまた意識障害を起こしてしまうのである。


 力を用い過ぎて筋を害すると、緩んでしまって自分の意思で動かせなくなるようになる。


 体の左右の一側にしか汗が出ない場合は、半身不随になる前兆である。


 また、発汗したところに湿邪が侵入すると、体表で湿邪と生気がせめぎ合い、あせもが生じるのである。


 贅沢な美食が過ぎると、足に大きなしこりのような出来物を生じる。これは、空の器を持って邪が入ってくるのを待ち受けるかの如くである。


 労働をして汗をかき、風に当たるようなことがあると、寒気を受けやすくなるのである。


 寒気を受ければ、肌表が閉じてしまい、肌表で正邪がせめぎ合うために吹き出物が生じ、肌下でせめぎ合えば、ねぶとのような芯のある腫れ物となるのである。


 人体の陽気は、澄んで穏やかであれば生命全体の気、すなわち神を養うものである。 同じく穏やかであれば筋を養ってふくよかであることが出来る。


 ところが気機が失調し、毛穴の開閉に異常を来たすと、寒気が体表に留まって気の流れを阻み、身体が前かがみに曲がってしまう、いわゆる「せむし」になるのである。


 寒気が脈を侵すとガングリオンのようなしこりが出来、肌肉に留まって連なると、経穴の気の流れに迫って神気に影響し、ちょっとしたことで過敏におびえたり、少しのことでハッとして驚くようになる。


 飲食物の精微である営気が、寒気によって正常に流れることが出来ずに欝滞すると、癰腫(ようしゅ)という皮下の出来物が生じる。


 出るべき汗が完全に出切らず、体の元気が弱っていれば出るべき陽気が内に欝滞するのでほてりという症状が現れ、同じように経穴が閉塞すると熱と悪寒が交互にやってくる風瘧(ふうがい)になるのである。


 これらのように、風(ふう)は様々な邪気と一緒になって人体を襲い、様々な病変を起こすので、風は百病の始めというのである。


 人の心身に、こだわりが無く、澄みきって清浄であれば、体表はしっかりと守られるので邪気を寄せ付けないだけでなく、激しい毒を含んだ大きな風がやってきても、このように内が堅固な人であれば、害することはできないのである。


 これらは、いかに四季陰陽の変化に適った生活をしていたのかにより、発病するか無病であるかが決まることである。


 従って、病邪が長期間留まれば、次々と深く入り込み、のぼせて足が冷える、足がほてって頭がぼんやりするなど、人体の上下の気が交流しなくなってしまうと、名医であってもこれを治すことが出来ないのである。


 また、陽気が大いに欝滞すると病んで死に至るのである。


 したがってこのような場合、陽気を瀉法という手段を用いて他に移さなければならない。


 陽気の性質上、早やかに正確な治療を施さないと、下手な医者は生気を損なって死に至らしめるのである。


 人の陽気というものは、日中は身体の外部にあって外邪から身を守る働きがある。


 夜明け頃には、人の陽気が生じ始めるので目が覚め、日中に最も盛んとなるので動き回り、日が西に傾くころになると陽気はもう衰えてくるので、毛穴は邪気が入り込まないように閉じるものである。


 このような理由であるから、日が暮れるとすべてを終えるべきである。


 そうであるにもかかわらず、筋骨を使う労働をしたり、外をうろついて霧や露にまみれて湿邪を招くことの無いように過ごすべきである。


 この朝・昼・夕の陽気の盛衰に反すれば、肉体は邪気の侵入を許し、差し迫って苦しむことになるのである。

 


 岐伯が申された。
 陰というものは、内に精をしまい込み、必要に応じて供給するのであります。
陽というものは、身体を外邪から堅固に守るものであります。


 もし陰陽のバランスが崩れ、陰気が消耗して陽気が盛んになると、脈流は迫るように速くなり、陽気が積み重なれば、狂ったような状態になります。


 反対に陽気が消耗し、陰気が盛んになりますと、五臓の気は動きがとれず互いに引き合い膠着するので、九竅(きゅうきょう=耳・目・鼻・口・前陰・後陰の穴)もふさがって通じなくなるのであります。


 しかしながら聖人は、陰陽の法則を明確に体得しているので、筋脈は和らぎ、骨髄は堅固でがっちりとしており、気血もまたそれに従って円滑に巡っております。


 このようでありますから、聖人の身体の内外は調和がとれており、いかなる外邪がやってこようとも、耳目は聡明でありまして、本来の姿を維持して壊れると言うことがないのであります。


 風邪が侵入してひつこく居座りますと、精血は傷害されることとなります。風邪は肝の臓を傷害することになります。


 このような状態にあって、食欲にまかせて食べ過ぎますと、筋脈はバラバラとなって機能しなくなり、下痢を伴う痔疾になるのであります。


 さらに大いに酒を過ごしますと、気が昇って降りて来なくなるようになります。


 また、大いに力を強いて用いますと、腎気が傷害され、腰の関節が緩んで立つことができなくなるのであります。

 


 おおよそ陰陽の要は、陽気を充実させておくことであります。陽気が充実しておりますと身体を堅固に保つことが出来るのであります。


 陰陽が調和していないのは、春があって秋が無く、また冬があって夏が無いようなものであります。


 陰陽の法則に順応することは、天の神意でございます。


 ですから、陽気が強く充実しておりませんと、陰気はその拠り所を失って絶えてしまいます。


 陰気が穏やかで和平でありますれば、陽気は鎮まって散ってしまうことがありませんので、心身ともに円満で生命を全うできるのであります。


 それに反して、陰陽が互いに交流せず分裂してしまえば、精気も絶えてしまい、人生もまた中断を余儀なくされるのであります。


 風にさらされますと、風邪となって身体を侵し、寒熱を生じる病となります。


 これを基本として、春に風邪を感受し、久しく留まって連なると、脾気が失調して未消化の下痢が起きるのであります。


 また夏の暑気に傷られますと、秋になって身体はやせ細り、熱と悪寒が交互にやって来る瘧(おこり)を病んでしまうのであります。


 秋に湿気の邪に傷られますと、肺気が湿気に阻まれて降りなくなるので、気が上に突きあがって咳嗽が生じることとなります。


 体幹部の湿邪が、手足に流れて停滞すると、陰邪であるがゆえに手足が冷えあがり、萎えて動かなくなる痿厥(いけつ)という病になるのであります。


 冬の寒気に傷られますと、春になって必ず目・喉が赤く充血して痛む温病となるのであります。


 このように四季の気、すなわち春の風気、夏の暑気、秋の湿気、冬の寒気は、それぞれ五臓を傷るのであります。


 陰気の生まれる大本は、飲食物の五味にあるのだが、飲食物の精をしまっておく五宮、すなわち五臓を傷害するのも、またこの五味にあるのである。


 酸味が過ぎると、肝気が盛んとなり、肝が尅する脾気が絶えてしまう。


 鹹味(かんみ=しおからい)が過ぎると、大腿骨のような大きな骨が疲弊し、肌肉は縮んで弾力がなくなり、心気は滞って伸びないので抑鬱になります。


 甘味が過ぎると、胸が煩悶して喘ぐようになり、心気もせわしなくなり、皮膚の色も黒くなって、腎精と腎陽のバランスがとれなくなり、早く老けこんでしまいます。


 苦みが過ぎると、脾気が潤いを失くし、胃に津液を送って冷やすことが出来なくなるので、胃に熱を持つようになってまいります。


 辛味が過ぎると、気が散ってしまい、筋脈も緩んで力が減弱し、心身共に本来の活動を制限されるようになります。


 このようであるから、特定の味の物を偏って摂るのではなく、よく心を用いて五味が調和するようにしなければならない。


 五味が調和した食生活を送っていれば、骨は正しく真っ直ぐで、筋肉は柔軟で弾力があり、気血は滞りなく順調に流れるので、体表の守りも充実するのである。


 そうであれば、腎精の現れである骨もしっかりと堅固で、人体をしっかりと支えることが出来るのである。


 陰陽の変化の法則、これを「道」というのであるが、身を謹んで道に従えば、天与の生命を無病で長く保つことができるのである。